2月4日定例会見が示した「説明責任の放棄」―選挙の公正性を問う声に、知事は何を語らなかったのか

2025年2月4日の兵庫県知事定例会見では、知事選をめぐる裁判判決を受け、フリー記者から厳しい質問が投げかけられた。
問題の核心は、選挙の公正性という民主主義の根幹に、当選者である知事がどう向き合うのかという点にあった。

しかし会見全体を通じて明らかになったのは、説明でも反論でもなく、沈黙と一般論の反復であった。

裁判で何が認定されたのか

今回の会見の前提となっているのは、兵庫県議・丸尾牧県議が、立花孝志による街頭演説について名誉毀損で提起した民事裁判である。

判決文では、次の点が明確に認定された。

  • 被告は虚偽内容であることを認識しながら街頭演説を行った
  • デマを用いてでも世論を誘導する意図があった
  • 民主主義の根幹である選挙活動において、
    有権者の判断を歪めることをいとわない態度が認められる

これは単なる私人間のトラブルではなく、選挙過程そのものの民主性が損なわれた可能性を司法が指摘したものと言える。

記者が問うた本当の論点

会見でフリー松本記者・菅野記者が一貫して問い続けたのは、次の一点である。

裁判所が「選挙を歪める行為」を認定した人物の行動が、
結果として知事の当選に寄与していた可能性について、
当事者である知事はどう受け止めているのか。

これは

  • 辞任要求でも
  • 違法性の断定でも
  • 政治的立場の追及でもない

選挙の正当性に対する、当選者自身の説明責任を問う、ごく正当な質問だった。

「民事だからコメントしない」という論点ずらし

知事は繰り返し、

「民事裁判なので個別の事案についてはコメントを控える」

と答弁した。

しかし、ここには決定的な論点のずれがある。

問題にされているのは民事上の賠償責任ではなく、民主主義の根幹である選挙の公正性である。

選挙の正当性は、行政トップとしての職務倫理・政治責任に直結する問題であり、「民事だから語らない」という理由で回避できるものではない。

「自分は一生懸命やった」という無関係な答弁

知事は何度も次の趣旨の発言を繰り返した。

  • 自分は当事者として精一杯やった
  • 政策や主張を訴えた
  • 有権者が判断した

しかし、これらは質問への答えになっていない。

問われているのは「知事が努力したかどうか」ではなく、第三者の不正・不当な行為が選挙結果に影響した可能性をどう考えるかという点だからである。

努力の有無と、選挙の公正性は、全く別の問題だ。

「覚えていない」「記憶にない」が示すもの

会見では、当選確定直後に知事自身が行ったとされる、

  • 立花氏に「共感した」との発言
  • 公益通報者保護法について「本質を捉えている」と評価した発言

についても問われた。

これらは映像や記録が残る公的発言であるにもかかわらず、知事は「詳細は覚えていない」「記憶がない」と繰り返した。

否定も、訂正も、評価の見直しも行わないまま、事実関係から距離を取る姿勢が示されたと言わざるを得ない。

会見によって「確定してしまったこと」

この会見を通じて、結果的に次の点が明確になった。

  • 司法が認定した「選挙を歪める行為」について、知事は見解を示さない
  • 当選時の発言についても訂正しない
  • 虚偽情報に関する指摘についても修正しない

つまり、説明もしないが、訂正もしないという立場が、公式の場で確認されたのである。

この会見を「普通の県民」がどう受け止めるのか

この会見を熱心な支持者でも、強い反対派でもない「普通の県民」が見たとき、多くの場合、明確な怒りや賛否ではなく、もっと静かな感情が残る。

それは、「よく分からないけれど、納得もできない」という違和感だ。

専門知識がなくても分かる「噛み合っていなさ」

多くの県民は、民事裁判か刑事裁判か、公益通報者保護法の細かい解釈までは理解していない。

しかし、それでも次の点は直感的に分かる。

  • 質問は具体的なのに、答えは抽象的
  • 同じフレーズが何度も繰り返される
  • 問われている内容に正面から触れない

この「会話が成立していない感じ」は、専門知識がなくても十分に伝わってしまう。

「説明しない」という姿勢が最も強く印象に残る

会見を見終えた県民の多くが覚えているのは、裁判の中身でも、記者の言葉でもない。

残るのは、次の印象だ。

「結局、この人は説明しなかった」

否定もせず、肯定もせず、訂正もせず、ただ「コメントを控える」を繰り返す姿勢は、慎重さではなく、回避として受け止められる

「一生懸命やった」という言葉が生む距離感

知事が繰り返した「自分は精一杯やった」「有権者が判断した」という言葉は、一般の県民に安心感を与えるどころか、むしろ距離を生んでいる。

なぜなら、県民が知りたいのは、

  • 知事が頑張ったかどうか
    ではなく
  • 選挙が公正だったのか
  • 疑義が出た今、どう向き合うのか

だからだ。

ここで話がすれ違ったまま終わることで、「この人とは話が噛み合わない」という感覚が残る。

「覚えていない」が続くと信頼は急速に下がる

当選直後の発言という、政治家にとって極めて象徴的な場面について「覚えていない」「記憶にない」と答える姿は、多くの県民にこう受け止められる。

「都合の悪いことから距離を取っているのではないか」

これは事実認定の問題以前に、信頼感の問題である。

政治に詳しくない人ほど、ここで強い不信感を抱きやすい。

支持・不支持ではなく「静かな離脱」

重要なのは、この会見を見て県民がすぐに反対派になるわけではない、という点だ。

しかし同時に、

  • 信頼が積み上がることもない
  • 何かあっても説明されないだろう
  • 距離を置いた方が無難だ

という判断が、静かに形成されていく。

これは声を上げない分、政治家にとって最も気づきにくく、しかし最も回復しにくい変化である。

会見が残した最大の問題

この会見が残した最大の問題は、一つの結論や評価ではない。

「選挙の公正性という問いに、
県民に分かる言葉で答えなかった」

その事実そのものだ。

説明しないことも、政治的な選択ではある。
しかしその選択が、県民の信頼をどう変化させるかについては、誰も無関心ではいられない。

問われているのは支持・不支持ではない

この問題は、「斎藤知事を支持するか、しないか」という話ではない。

問われているのは、

  • 選挙の公正性に疑義が生じたとき
  • 司法判断が示されたとき
  • その結果、利益を得た当選者が

県民に対して、どのように説明責任を果たすのかという、民主主義の基本原則である。

おわりに

選挙は「結果が出たから終わり」ではない。
その過程が公正であったかどうかを検証し、疑義があれば説明することこそが、民主政治を支える。

2月4日の会見は、その問いに対して答えなかったという事実を、県民の前に残した会見だった。

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jordan192
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